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「非凡と平凡」、それはどのように作られるのか

この文章は素人が自由な発想で考察したものであり、常識・定説・専門家の意見などの世間一般の認識とされるものとは違う場合があります。また、筆者の知識不足や勘違いにより考察が全く意味の無い場合もあることを踏まえた上でお読み下さい。筆者の事実関係の認識が間違っている場合は、指摘していただけるとありがたいです。


今日、ツイッターでこんなことをつぶやきました。

今日のある方のツイートを見て:人生における、可能性とある分野での能力
それは反比例の関係にあるのだなと、思った。
一つの分野に特化するためには、他の分野を犠牲にせねばならず、それは可能性を減らすことを意味している。
非凡になるためには平凡を捨てねばならぬ。

自分でいうのもなんですが、ちょっと名言っぽいですね。私は普段こんなことを大まじめに考えていたりします。

実はこのとき、ツイッターの文字制限のために書けなかった続きがあります。それはこんな感じでした。


↓ 続きはこちら

親は子供に非凡を夢に見、平凡を望むという矛盾をおかす。

子供が小さい頃、親は子供の才能を伸ばそうといろいろなものを習わせたりします。しかし子供がある程度大きくなると態度が豹変します。例え子供が何かの才能に目覚めていて、その道に進みたいといってもそれを許さないのです。

「大学ぐらいは出ときなさい」、この言葉もよく聞きますがそれはつまり平凡という名の可能性を手放すなということに他なりません。

この世の中は、圧倒的に数が多い平凡な人が生きやすいように作られています。そういう意味では親が子供に平凡を望むのは当然なのかもしれません。

芸能界やスポーツには二世が多く見られますが、それはこのことと密接に関係があるのではないかと思っています。親が平凡な人だった場合、子供に非凡な才能を見いだしたとしてもその可能性を想像できる人は少ないのです。そして出す結論は、多くの場合平凡に生きろになってしまう。
親が何かの分野で非凡であれば、子供に対する見方は変わってくるでしょう。親と同じ分野で活動するとなれば、親は自分の経験を生かすこともできます。もし子供が才能を発揮できずその分野で一流になれなかったとしても、何とかしてやれるだけの財力やコネがあれば、子供のやりたいことを応援することを躊躇することは少ないでしょう。

人を非凡にするのは、才能よりも環境の影響の方が大きいのかもしれません。そしてその環境の大部分は親が握っているのです。
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